ほほ先生の趣味

・たまに動画作り(猫ミーム)

・漫画を読むこと(歴史系)

・お散歩すること(旦那さんと)

・ぬいぐるみが好き(モフモフ)

はじめまして!

井村芳々(通称ほほ先生)と申します♪

フリースクールほほえみ学園の、代表講師&カウンセラーとして活動しています♪

導かれるように不登校支援のお仕事をさせていただくようになってから約3年、年間100人以上の不登校の小・中学生、高校生の方の学習サポートや心理的フォローを行って来ました♪

このページでは、私のことや、私が不登校の方のサポートをしようと思った動機などをお話していきたいと思います!

もくじ

①頑張りすぎて気力が尽きて、外に出られなくなっていた頃の私

②教育熱心な親と一緒に暮らせなくなり、知人の家に避難してそこで働くことに

③漢字が思い出せなくなったり、簡単な計算が出来なくなったりして困った!

④常識が通じない世界で、人間扱いされていなかった頃の私

⑤学習する習慣と基礎学力が私を救った!

⑥「自律」する力が弱くなっている人たちに学習や心理的なサポートをしたい夢を掲げて、介護の仕事をしながら大学に進学

⑦不登校の方や発達特性を持つ方に特化した家庭教師・通信高校サポート校の講師・適応指導教室のカウンセラーとして働くようになる

①頑張りすぎて気力が尽きて、外に出られなくなっていった私

私の母は、非常に教育熱心な人でした。

私は2歳の頃から学習塾に通うことになり、物心ついた時には一日1時間勉強することが当たり前の生活を送っていました。

4歳の頃から幼稚園の年中さんクラスに入りました。朝は早く起きて、幼稚園に行く前に30分必ず家で勉強をしていました。もちろん、幼稚園から帰ってからも30分以上は勉強時間です。

思い出すのは、私が年中さんだった大晦日の日。母から厳しいノルマを言い渡されて、朝から夜中までずっと算数の計算問題を解いていました。もう日付が変わって新しい年になってもノルマが終わらなかったので、明け方の4時まで父と一緒に算数問題を解いていたのは良い思い出です。泣きながら計算をしていた私に、父がストーブでお餅を焼いてくれました。

そんな生活をしていたためか、私は幼稚園でも小学校でも浮いていました。小学校に入ると、同級生からいじめられるようになりました。特に低学年の頃は辛かったのですが、勉強ができるので学校そのものは嫌いではなく、気の合わない人とあまり関わらないようにしながら登校していました。

私の学力や学習習慣は、今後も自分の人生を救うことになるのですが、まず最初に私を救ったのが小学校低学年の頃だったのでしょう。

そして、幼少期から培った学力のお陰で、特に中学受験専門の塾に通うこともなく、私立の中高一貫校に合格しました。中学からは親元を離れて、都会の学校に通うことになりました。(実家は愛知県です。)そのため、中・高の6年間は学校の寮で生活をしていました。

しかし、寮生活は順風満帆というわけにはいきませんでした。今思えば、私は発達特性の強い子供でした。小学校の頃は気になりませんでしたが、中学に入ると周りから「変わった子」と見られるようになり、また、それに気づくようになり、人と話すことがどんどん辛くなってきました。

全寮制の学校に通って、人とうまく関われなくなったことは本当に致命的な問題で、中・高の6年間を過ごすのはかなりしんどかったです。幸い、私には2歳離れた妹がいて、途中から一緒の寮で暮らすことになったので救われていました。友達も全くいないわけではなく、気にかけてくれる子はいたので、教室では1人になることが多くても寮では何人かの子とは話すことが出来ていました。

しかし、寮で暮らすこと、学校に通うことにかなり精一杯で、学習どころではなく、学力はどんどん落ちていきました。

そんな中、親の意向で「医学部」を目指して受験勉強をすることになりました。母は私の力を過大評価している部分があり、また、県外の私立校に入った私を誇りとしていたので、私が「医学部」に合格することは当たり前だと思っていました。でも、高校生になった私は、とてもではないけれど医学部レベルの学力を持ち合わせていません。私は母に嫌われることが一番怖かったので、母の言う通りに予備校に通い、勉強をしました。それでも、どこの大学にも入ることができず、私は浪人することになりました。

予備校は大阪で有名な医学部進学予備校に行くことになりました。私はまた寮生活をすることになりました。私はもうその時には、家の外で人と関わったり生活したりする力が全く残っておらず、かなり無理をして寮生活を続けて予備校に通い続けました。

学習は無理やり頑張ったので、2年間の予備校生活を終えた後に、センター試験(今の共通試験)は平均9割の点数を取ることが出来て、私立の歯学部に合格することが出来ました。ただ、そこで全ての力を使い果たした私は、寮から家に帰った後に外に出ることが出来なくなっていたのです。

2浪して、歯学部には合格しましたが、母は「医学部でないと行かせないよ。」と言うので、今度は実家で浪人生活を続けることになりました。そして、実家から名古屋の予備校に通うことになりました。最初の頃は無理やり通っていた予備校でしたが、やはり学習に手がつかず通うことだけで精一杯になっていたため、男の先生にものすごく怒られました。それがきっかけで、予備校に通うことが怖くなり、外に行くことが出来なくなってしまいました。

②教育熱心な親と一緒に暮らせなくなり、知人の家に避難してそこで働くことに

その頃は、実家での生活もボロボロでした。家族とも会話することが出来なくなってしまったのです。それでも、誰かと話したい私は、携帯電話のチャットにはまり、居心地の良さから抜け出せなくなり、携帯依存症になりました。昼夜は逆転し、部屋を片付けることが出来なくなり、勉強にもまるで手がつかず外に行けなくなった私。携帯の中の文字だけが唯一の私の世界。「こんな生活から抜け出して普通になりたい。」気持ちはあるのですが、どうしてもまた携帯に手が伸びてしまう。地獄でした。

母はそんな私に対し、「悪いものが取り憑いているのではないか。」と心配し、色んなスピリチュアル的なカウンセラーさんのところに私を連れていきました。それでも一向に良くならなかったので「私が追い出す!」と言って、「ほほについている悪いもの!ほほから出て行け!」と、私を殴ったり蹴ったりしました。私はもう家で暮らすのは無理だと思い、父の知り合いである実業家のおばさんに事情を話して、そこで一時期匿ってもらうことになりました。おばさんは、女性で中卒ながら会社を起こし、訳ありの家出娘やホームレスに住処と仕事を提供して自律を促す慈善事業を行っていたのです。私はそのおばさんと一緒に生活することになりました。

③漢字が思い出せなくなったり、簡単な計算が出来なくなったりして困った!

おばさんの家に身を寄せた時の私は、目を見て人と話すことが出来ず、始終ボーッとしてうまく動くことが出来ず、突然泣き出したり、どこかへ行ってしまったりする「挙動不審の人」になっていました。また、頭で考えていることをうまく言葉にすることが出来なかったり、簡単な指示を理解出来なかったりしたので、「この子、知的障害があるのかしら。」とおばさんには思われていました。おばさんの経営する店で、陳列や掃除のお手伝いをすることになりましたが、周りの従業員たちはそんな私を軽んじて、バカにしてきました。今思えば、うつ状態で自分に自信が持てず、うまく話をすることや行動することが出来なかったのですね。加えて、簡単な読み書きや計算まで出来なくなっていました。1年前に歯学部に合格した同じ人間とは思えないくらいの知能です。「かわいそうな子」のレッテルを貼られた私は、ひたすら雑用を朝から晩までさせられました。

④常識が通じない世界で、人間扱いされていなかった頃の私

おばさんは中卒でした。そのため、お店で働く人たちも中卒や高卒の人が多く、私が学歴社会の中で生きてきた頃の常識は全く通じませんでした。

言葉遣いは乱暴で、直接的ないじめは日常茶飯事でした。倫理観が欠如しており、しょっちゅう嘘をつかれて嫌な思いをしたり、殴られたり蹴られたりしていました。飲み物に異物を混入されたり、突然背中に大きな虫を入れられたりしたことは、今でも鮮明に覚えています。

しかし、私は他に行くところがありません。家にも今更帰れません。そこで生きるしかなかった私は、死ぬほど頑張ることにしました。まずは言われた仕事は全部できるように努力し、朝から晩まで休みなく働き続けました。その内、頭が回るようになってきて、人と話すことができるようになり、文章も元どおりに書けるようになりました。少しずつ自信を取り戻した私は、独学で英会話を勉強するようになりました。何しろ、おばさんのお店に来るお客さんの大半が外国人なのに、英語を話せるスタッフが1人もいなかったからです。

私は、予備校の頃に無理やり英語を詰め込んだお陰で、英語の基礎知識はありました。それを活かしつつ、新たに書籍で学習しながら覚えた言葉を接客に使うようになると、私についてくれるお客さんがどんどん増えていきました。

おばさんの家はリサイクルショップをやっていて、ひっきりなしに英語を話す機会があったので、お陰様でどんどん英会話の力が上がっていきました。仲良くなった外国人の中には英語を個人レクチャーしてくれる人もいて、私はその環境を有り難いと思うようになりました。

英語と並行して、私は法律の勉強を始めました。自分の身を守るためです。おばさんは、よく色んな訳ありの大人や子供の相談を受けており、その中で私の法律の知識が役に立つことがありました。

最初の頃は私を「可哀想な子」と思っていたおばさんは、徐々に私に一目置くようになり、お店を1軒任せてくれるようになりました。

⑤学習する習慣と基礎学力が私を救った!

もし、私に学習する習慣や基礎学力がなかったら、あまり良い環境とは言えないところで生活・仕事をしている中で、ずっといじめられ続ける人生を送っていたことでしょう。一時的に知的障害レベルのIQに陥ってはいましたが、自分の頑張る姿を見せたことや、役に立つ知識を身につけたことで、周りから認められるようになりIQも徐々に回復していったのです。

お店を一軒任されるようになった私は、そこで働く人たちに対して教育を行うようになりました。ちょうどその頃は、2008年のリーマンショックの時代で、多くの派遣労働者が仕事や住むところを失って、おばさんの家に助けを求めにきた時期でした。おばさんはその中でも、他所で働くことが難しい外国人労働者を積極的に受け入れました。彼らは、工場で同じ国の仲間と働いていたので、日本語を話すことも難しかったのです。私は彼らに日本語を教えました。代わりに私は彼らからポルトガル語や英語を学び、お店で対応できる外国人はどんどん増えていったのです。売り上げは右肩上がりで、新しい店舗を出すことになり、そこに私が教育した外国人の人が店長として入るようになりました。お店を持たされたスタッフは自信を取り戻し、自律して生活をすることが出来るようになりました。

私はそこで「教えることの楽しさ」や「結果の出るやりがい」に気づきました。そして、将来的には「人に教えることで、その人の人生のサポートをする仕事」をするようになりたいと思うようになりました。

⑥「自律」する力が弱くなっている人たちに学習や心理的なサポートをしたい夢を掲げて、介護の仕事をしながら大学に進学

お店が外国人スタッフ達で回るようになり、私は「私の人生」について真剣に考え始めました。今のままおばさんのお店で自立支援の仕事をするのも良かったのですが、もっと専門的に心理や福祉を学び、より多くの人のサポートをしたい気持ちが強くなった私は、おばさんの家を出て介護の仕事をしながら福祉系高校と福祉系大学に通うことにしました。

まずは計画を6年スパンで立てました。最初の2年で高校に行き直し、次の4年で大学を卒業する計画です。大学を卒業したら、相談援助の仕事や講師としての仕事をしていくつもりでいました。

講師になりたい理由はもう一つありました。私は医学部受験をする中で、多くの家庭教師や個別指導講師のサポートを受けながら学習に対する前向きな気持ちを取り戻していったことがあったからです。良い講師の方は私のお話をよく聞いてくれました。その講師の科目は好きになって、自習する力を取り戻したので歯学部に合格することが出来ました。逆に、私の心理的な事情をまるで配慮せずに、態度で示してくる講師もいました。配慮してくれなんて思ってはいませんが、心の中でその講師のことを「怖い」と思っていると、その科目の学習に対するモチベーションが上がらなくなるものです。

私は介護の仕事をしながら一人暮らしをする中で、地道にコツコツ更なる学習を積み上げていきました。大学で習う医学的知識や心理的サポートの専門知識は、介護の仕事の中で非常に役に立ちました。

また、リハビリテーション病院で働いていたことから、障害を負ってもなるべく自分の力で生活していくことが出来る「自立支援」について、しっかり学ぶことが出来ました。

私は介護の仕事をしながら、社会的弱者の心理的サポートや自立支援を行うスペシャリストになっていきました。

そして、今の世の中は「社会的弱者の自立支援」を目標に挙げているため、私のやりたいこととマッチしていました。

介護が必要な人でも、出来る限り自分でできることは自分で行う「自立支援」を行うために、食事や体操、生活習慣を整える方法なども学びました。

結局、目標を掲げてから大学を卒業するまでに8年掛かりましたが、私は介護の仕事をしながら学んだ知識を活かして介護講師の仕事をするようになりました。並行して、その頃には和解していた母と一緒に病気や怪我を患った方のケアや、病気や怪我の予防を行う「セラピーふかざわ療整院」を事業として行うようになりました。私はもっぱらカウンセリングや講師の役回りです。そこでも色々な人たちに接して、自分の学んだことや経験の意義を深めていきました。

⑦不登校の方や発達特性を持つ方に特化した家庭教師・通信高校サポート校の講師・適応指導教室のカウンセラーとして働くようになる

たくさんの人たちと接して自分の知識・経験を役立てる中で、私がいつかやりたいとずっと考えていたことが「引きこもりの学生の学習・心理的サポート」です。

私は運よく、社会に出るきっかけや学習をする環境があったお陰で、立ち直ることが出来ましたが、世の中にはずっと引きこもったままでいる人も少なくはありません。

そこで、私はまずご縁のあった通信高校サポート校にて、数学や理科、倫理を集団授業や個別授業で教えるようになりました。最初は、福祉科に配属される予定だったのですが、科目講師としての方が需要が高かったのです。その中で私は、福祉や心理の知識・経験を交えながら私オリジナルの授業をするようになり、生徒様のご好評を受けるようになりました。

通信高校の仕事をしながら、不登校のお子様や発達特性をお持ちのお子様に特化した家庭教師としても活動するようになりました。「うちの子、ほほ先生には懐いているんです。」という保護者様のお言葉や、不登校のお子様が学校に通えるようになる姿を見ることで、すごく嬉しくなりました。

そこで、自分のやりたいことが間違っていなかったと確信した私は、東京都にある不登校の小中校向けの適応指導教室で、心理相談員として学生達のカウンセリングや学習サポートを行うようになりました。

小学校1年生や2年生から学校のカリキュラムについて行けなくて適応指導教室を利用するお子様がいたり、中学3年生で漢字や簡単な計算問題が出来ないお子様がいたりする現状に、私は震えました。

また、家の中でずっと動画を見たりゲームをしたり、偏食だったり、運動しなかったり、睡眠を適切に取れなかったりする子供がいかに多いことか。

この子達がこのまま大人になった時に、果たして社会に適応することが出来るのだろうか・・・

若くして生活習慣病から要介護になる可能性が高いのではないか・・・

学校に行くことが出来なくてもいい。

せめて、少しでも社会との繋がりを持ち、家族以外とのコミュニケーションを取ることが出来る環境に慣れて、学習に興味を持つことが出来るのであれば、社会に出てから「自分で自分を救うことが出来る人」になるのではないか。

学習を通じて食や運動、睡眠の大切さを学んで自らの生活習慣を改善していくモチベーションを持てるのではないか。

私はそう思い、目の前の生徒達のサポートを行ってきました。

私の過去の経験は、そのまま授業にもなり、生徒のモチベーションにもなりました。

東京都は不登校の生徒様に対する支援が手厚く、色々な対策が講じられて来ている都市であるため、私はかなりそこで勉強をさせてもらいました。

そして、まだまだ不登校のお子様に対する支援が少ない神奈川県において、私は今までに得た知識や経験を活かした「不登校のお子様の学習・心理的サポートを行う学校」を作りたいと思うようになりました。

まず、手始めに自分の家の近くの会場を週1回借りて、そこに生徒様に顔を出してもらって、コミュニケーションや学習のサポートを行います。家でも自学自習できるように、「学習に興味が向くような」授業をしていきます。

そして、「自分で家で勉強する」ために、需要があればICT教材を導入する予定です。週1でもの足りない方には、他の日はオンラインで学習やコミュニケーションのサポートをしていきます。

少しでも多くの不登校の方が、「自律した社会生活」を送ることが出来るように、サポートさせて頂きたいと思っています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。